コンサート動画配信中

事業実施計画

1.合唱と朗読による組曲「テレジンを忘れないで」制作・記録

①組曲のコンセプト決定(4月)
・テレジン縁の作曲家、ドマジュリツキーとハンス・クラーサの作品6曲の「合唱」と、テレジン収容所とそこで生きた絵の先生フリードルデッカーと子どもたちの様子を「朗読」で伝え、「平和」がいかに大切なのかを伝えることをめざす。
②楽譜の入手
・ドマジュリツキーの楽譜については、国内での入手が不可能であることが判明、以前から交流のあるチェコ少年合唱団ボニプエリの音楽監督:バベル・ホラーク氏に助力を依頼する(4月上旬)。4月中旬ホラーク氏から楽譜が到着。
③チェコ語のレッスン (4~10月 10回実施)
・ドマジュリツキー編曲の「チェコの歌」、ハンスクラーサの「ブルンジバール」を歌い切るため、チェコスロバキア協会の家田 恭氏によるチェコ語のレッスンを実施する。
④翻訳作業
・ドマジュリツキーの題材となった「チェコの歌」、ハンス・クラーサ作曲の「ブルンジバール」の意味を理解するため、チェコ語の和訳を家田氏に依頼。
・「語り」部分の英訳、作品制作の意図についての英訳を大野氏に依頼。
⑤テレジン収容所と子どもたちについての研修会実施 (5~11月 5回実施)
・テレジン研究の第一人者の一人:野村路子先生より、テレジン収容所についての歴史的背景や生活状況についての研修を受ける。
・野村路子先生よりテレジン収容所でフリードル・デッカーが実施した「絵の教室」についての研修を受ける。
⑥合唱と朗読による組曲「テレジンを忘れないで」記録(8~11月)
・地元ケーブルテレビ、県立東播磨高等学校の協力を得て、組曲演奏風景を記録

2.チェコ訪問とコンサート実施・・・コロナ感染拡大により渡航中止決定(2月中旬)

オンラインにて代替コンサート、バーチャル訪問、国内コンサート追加実施

①チェコ:テレジンゲットー博物館と結びオンラインコンサート
(2022.3.6…博物館の事情により3.13実施予定を前倒し実施)
・合唱と朗読による組曲「テレジンを忘れないで」演奏 
・演奏を聞いた感想が述べられる
②ゲットー博物館バーチャル訪問
・博物館スタッフへ事前に質問送付、施設説明の中で回答
・博物館スタッフと意見交換
③チェコ少年合唱団ボニプエリとオンライン交流
「平和」についての意見交換 (2022.3.20予定→3.27に延期)
意見交換の流れ
・稲美から事前に組曲「テレジンを忘れないで」演奏動画を送付。
・チェコ少年合唱団ボニプエリから演奏を聞いた感想が述べられる。
・ボニプエリからは、テレジンでの「ブルンジバール」公演の思い出や、公演に込めた思いを聞く。
・兵庫稲美少年少女合唱団からは、「テレジンを忘れないで」演奏の経緯と、「広島」「長崎」の原爆投下についての意見を述べる。
・テレジン、ロシアのウクライナ侵攻について両団からの意見を述べる。
・合唱活動を通して平和を訴えることを両団で誓う
④チェコの小学校へ組曲「テレジンを忘れないで」動画を送付、意見交換
・チェコ国内のコロナ感染拡大のため、予定していた学校はキャンセルとなった。
・別の学校へ動画送付、感想の返信を依頼中。
⑤国内コンサート①:テレジンの子どもたちに捧げる(2021.8.28)
・稲美町教育委員会主催「テレジンの幼い画家たち展」にて演奏
「チェコの歌」より 眠らないで待っている 山よあなたは何て高いの
あなたは何て美しい
「ブルンジバール」より 子守唄  演奏 (コロナ感染予防の為 無観客)
参加者 35名
⑥国内コンサート② :合唱と朗読による組曲「テレジンを忘れないで」(2022.3.6)
・いなみ文化の森コスモホールにて開催
まん延防止等重点措置発令中により400人の入場制限あり
・朗読担当の東播磨高校放送部は、対外活動禁止の為参加できず、兵庫稲美少年少女合唱団OG合唱団メンバーが急遽代役を務める。
・合唱と朗読による組曲「テレジンを忘れないで」フルバージョン演奏
参加者382名 (アンケート別紙)

事業実施経過・報告

テレジン収容所跡 点描

テレジンの要塞が作られたのは、18世紀の終わりごろ、1780-1790の間である。
ボヘミヤ領内へ敵が侵入してくるのを防ぐ目的で建造された。小要塞は19世紀初頭以降、政治犯を投獄する監獄として役割を担っていた。大要塞の方は、一般市民も暮らしていたという。

1941年11月にユダヤ人ゲットー(=収容所)となった。当初はユダヤ人の囚人が兵舎にのみ収容されていた。
1942年半ばには、ドイツ軍は元々の住民を強制移住させ、テレジン全体を収容所化した。

上の教会は、テレジンの子どもたちの描いた「絵」にも登場する。実際歩いてみると、本当にここが収容所であったのか、と思うほど広々とした芝生が続いている。
子どもたちはここで両親と離れ、食べるものも充分になく1日1日をどんな気持ちで過ごしていたのだろう?

上の画像は、高い塀の外から見た教会の尖塔部分だ。塀の内側には自由も、明日への希望も失われていたのだ。それでも心ある大人たちは、献身的に仲間を救おうと行動したのだ。
フリードルもその一人だったに違いない。

テレジンの外れに、線路が残っている。これはポーランドにあった絶滅収容所:アウシュビッツへ続く線路だ。収容された人々は、一人、また一人と消えて行く・・・いつしか人々の間では「東の怖いところへ行くんだ・・・」と言ううわさが広まって行った。

オペラ「ブルンジバール」

子どものためのオペラ「ブルンジバール」はハンス・クラーサが作曲。私たちはヨーロッパ公演で初めて、このオペラを鑑賞しました。オペラを演じていたのは、世界的に活躍を続ける、チェコ少年合唱団:ボニプエリのみなさんでした。私たちは、チェコにも「テレジン収容所」という「負の遺産」があったことを初めて知りました。

オペラ「ブルンジバール」は、病気のお母さんのために牛乳を手に入れようと街へ出た、ペピーチェク(兄)とアニンカ(妹)が、多くの友達や動物の協力を得て、悪者ブルンジバールをやっつける物語です。
このオペラは、ドイツ軍が赤十字の視察や他国を欺くために許可した「芸術活動」でした。実際に子どもたちによって50回以上も上演されました。

チェコ少年合唱団:ボニプエリとは、すでに10年以上の交流を続けています。彼らの日本公演の際は稲美にホームステイ、私たちのチェコ公演の際は団員宅へホームステイと友情が深まっています。
今回のプロジェクトでも楽譜の提供や、演奏についてのアドヴァイスをして下さいました。

世界中に広がったコロナ感染の為、今回はリモートでの交流となりましたが、またいつか共に歌声を合わすことを確かめ合いました。
「合唱」は世界を結び、そして「人々の幸せ」にきっと役立てるものと信じ、共に歌い続けようと語り合いました。
チェコ少年合唱団:ボニプエリのホラーク先生(音楽監督)は、本当に素晴らしい子どもたちを育てていらっしゃいます。

テレジンの幼い画家たち展

2021年8月24~29日、いなみ文化の森 ふれあい交流館で「テレジンの幼い画家たち展」が開催されました。私たちは、子どもたちの絵が展示されているチェコ:テレジンにあるゲットー博物館でのコンサートに向けて練習を重ねてきましたが、新型コロナの感染拡大で実現が厳しい状況でした。一枚一枚の絵画へ、自分の思いを込めて歌いかけました。

劣悪な「テレジン収容所」で子どもたちは、毎日何を楽しみに生きていたのだろう?子どもたちには十分な食事が与えられたのだろうか?
私たちと同じくらいの子どもたち、両親と離れてとても寂しかっただろう。子どもたちはたくさんの思いを、絵から受け取りました。

ある日、子どもたちの前に一人の女性が現れました。フリードルデッカー:彼女は絵の先生でした。週に1~2回、彼女は子どもたちに絵を教えました。「楽しかったことを思い出して書いてみましょう!!」。テレジンの子どもたちは、それは鮮やかな絵を描きました。
母親たちは、自分のセーターをほどいて、絵の材料として提供をしたそうです。

戦争が終わり子どもたちの住んでいた建物から、4000枚もの絵が見つかりました。
しかし1,4000人の子どものうち生還できたのはたった100人でした。
子どもたちの絵から、あなた方は何を受け取りますか?あなたたちには、子どもたちのどんな「声」が聞こえてきますか?

野村路子先生との出逢い

野村路子先生がNHK「心の時代」に出演されました。ここから先生との繋がりが始まりました。先生は日本各地でテレジンの子どもたちの絵の展示会を開かれたり、ご講演をなさったり、平和を語る伝道師です。テレジン研究の第一人者の一人に巡り合えた私たちの合唱団はとても幸運でした。
この出逢いをいつまでも大切にしたい。

野村先生には数回にわたり、子どもたちに「テレジン」のこと「戦争」のこと、そして「命」についてもお話しいただきました。
子どもたちは、先生の話を食い入るように聞きました。
・チェコの子どもも、日本の子どもが「広島」を学ぶように「テレジン」のことを学ぶの?
・フリードルが絵の教室を続けるには、他の大人たちのどんなサポートがあったの?
・私たち合唱団にどんなことができるか、考えて行きたい。

野村先生はどんな小さな質問にも、それはそれは丁寧に答えて下さいました。
コロナ禍の中でも、組曲「テレジンを忘れないで」を作り上げ、発表することができたのは、先生との「奇跡的」な出逢いが大きな原動力となりました。
野村路子先生は、テレジンの子どもたちの絵を日本で紹介されるようになって、30年が経過するとおっしゃっていました。

野村路子先生は、「テレジンを語り継ぐ会」の代表。テレジンから生還された方の消息を単身で求め、生存者の証言をもとに、著作を続けていらっしゃいます。現在、学校図書6年生の教科書には先生書き下ろしの「フリードルとテレジンの小さな画家たち」が掲載されています。日本の子どもたちにとっても、世界の人々と創る未来への大切な学びとなります。

「テレジンを忘れないで」学びの軌跡①

「テレジン」の学びを進めるために、写真集テレジンからの生還者:ヘルガさんの画集・ヘルガさんの日記・テレジンの地図・子どものためのオペラ「ブルンジバール」を絵本化したもの・・・できる限りの資料を集め、まずは、歴史から学んでいくことにしました。
合唱以外に「テレジン」についても4月からスタートしました。

「テレジン収容所」は、もともと「砦」として使われていました。ドイツ軍が「収容所」として使用する前は、普通に人々が暮していました。第二次世界大戦直前、テレジンに暮らしていた人々は住処を奪われたのでした。
そして、「テレジン収容所」は、絶滅収容所「アウシュビッツ」の中継地としての役割を果たすのです。

プラハ在住のヘルガさんへ、私たちが「テレジン」について学んでいることを伝えました。
同時に子どもたちの書いた、希望溢れる意味を持った「習字」も届けました。
ヘルガさんからは、「自分を大切にするように、他かの人も大切にしなさい」というメッセージが届きました。ヘルガさんは、12歳の時にテレジン収容所に送られました。絵の才能に恵まれていた彼女は収容所にいた3年余りの間に100枚以上の「絵」を描きました。「Safe you our life and aiso the life for all the others」

テレジンから生還したドマジュリツキーの作品集を、チェコ少年合唱団のホラーク先生が届けてくださいました。チェコ語による練習がスタートします。

「テレジンを忘れないで」学びの軌跡②

チェコ語のレッスンは、チェコスロバキア協会の家田 恭先生が担当下さった。チェコ語の本を日本語に訳されるほどの、素晴らしい先生。ご自身もテレジン研究を続けていらっしゃり、レッスンの合間にはテレジンの歴史についても詳しくレクチャーくださった。
指導いただいたのは、テレジンを生き抜いたドマジュリツキーが編曲した「チェコの歌」。
チェコ各地の美しい民謡がベースになっている。子どもたちにも演奏できるアレンジになっている。発音の標記も独特、勿論、聞いたこともない「音」に毎回苦戦が続いた。
その度、家田先生はねばり強く子どもたちを指導くださったのだ。3か月が過ぎたころ少しチェコ語らしくなってきた。

上の画像は、テレジン:ゲットー博物館に展示されている「小さな画家たち」の作品だ。
ここで、私たちはチェコ語で絵画に歌いかけたかった。しかし、夢は未だ叶っていない。
いつの日にかきっと訪れよう。

オペラ「ブルンジバール」は、子どもたちのために作られたもので、収容所が作られる前に作られた。テレジンでは「美化キャンペーン」の一環として、他国を欺きテレジンの真の姿を覆い隠すための宣伝目的で収容所で何度も演奏された。
終曲「勝利の歌」は、最後にはドイツ軍を打ち負かし「自由」を得たいという思いが込められていたという。日本ではチェコ少年合唱団:ボニプエリが初演した。

ヘルガさんとの出逢い

ヘルガさんはテレジン、アウシュヴィッツの収容所からの生還者だ。テレジンに収容されたときが12歳だから、もう90歳近い高齢だ。野村路子先生が消息を見出された一人で、直接何度かお会いになっている。私たちのテレジン訪問に合わせて、子どもたちに直接会ってもらえないかとプラハの自宅を訪ねた。自宅はプラハの郊外で地下鉄駅からすぐのところだった。

野村先生から「ヘルガの家にはドアの上部に、彼女が子どもの頃遊んだブランコをかけるフックがついているのよ・・・」というお話を伺っていた。お父さんが作ってくれた屋内ブランコで、穏やかな生活を送っていたのだろう・・・。テレジンへ送られた後は、別の人が住んでいたようだが、今はヘルガさんが独りで暮らしている。画家として日本でも個展を開いたことのあるプロの画家だ。通訳についてくださった佐藤さんのお陰で、ヘルガさんから直にテレジン収容所の様子をお聞きすることができた。

子どもたちからの「習字」のプレゼントを渡すと、一枚一枚にその意味をペンで書きこんでいらっしゃった。
ヘルガさんは幼いころから絵を描いていた。
収容所ではお父さんから「見たものをそのまま描きなさい」と言われたそうだ。今、彼女の描いた「絵」は画集になり、歴史を伝える貴重な文化遺産ともなっている。「絵はいつかいたのか?」と尋ねると、「眠る前の僅かな愉しみだったの」と答えてくれた。日中は労働に駆り出され、疲れ切った体を横たえ「絵」を描いたのだろう。

上のレリーフは彼女が描いた絵を元に作られた「トランスファー」(移送)。プラハ市内に設置されている。そこはユダヤ人がテレジンに送られるときに集合させられた場所なのだ。ヘルガさんは「元気だったら子どもたちに逢えるかもしれない」とポツンとおっしゃった。

Access nobuhitotsubakino@gmail.com